2016年6月 鹿児島湾の重富沖(姶良市脇元)

201606

文久2(1862)年の生麦事件に端を発した薩英戦争。この舞台のひとつが重富沖である。

主戦場は鹿児島城下に面する前之浜一帯であったが、戦闘状態に至るきっかけといえる出来事が発生したのが重富沖なのである。また、この出来事に直接関係したのが、薩英戦争後の慶応元(1865)年に留学生を英国に引率することになる五代友厚と寺島宗則(松木弘安)である。

そもそも当時の重富は、脇元浦と呼ばれる鹿児島湾奥の交通や交易における拠点のひとつであった。大口筋と呼ばれる藩内主要道が白銀坂を通じて鹿児島城下と結ばれ、蒲生方面への街道も重富麓を経由して脇元浦と結ばれていた。それだけに通常から大小様々な船が停泊する場所でもあった。

文久3(1863)年6月27日、イギリス艦隊が鹿児島湾に来航し、翌日から鹿児島城下前の沖合に停泊して生麦事件の賠償交渉が始まる。

その頃薩摩藩は、イギリス艦隊の来航を予期して外国から購入していた「天祐丸」「白鳳丸」「青鷹丸」の汽船を重富沖に回船していた。イギリス艦隊は、この存在を知り、交渉を有利に進めるため7月2日の早朝、汽船の拿捕に踏み切った。鹿児島城下沖合から4隻の軍艦が重富沖まで移動し、薩摩藩の汽船を取り囲んだのである。

この汽船には五代と松木が乗船しており、拿捕された際には重富に上陸させられずに、汽船とともにイギリス艦隊に連行されてしまった。この行為を薩摩藩は戦闘行為とみなし、それならと天保山の砲台から砲撃を開始し、双方打ち合う戦闘状態となったのである。

その後ふたりはイギリス艦隊とともに横浜まで向かい、そこで解放された。ふたりにとっての薩英戦争は、重富ではじまり横浜で終わったということなのだろうか。