2016年4月 長沢鼎の墓(鹿児島市冷水町)

201604

慶応元(1865)年、薩摩藩から英国に派遣された留学生のなかで最年少であった長沢鼎(かなえ)。

彼の墓が鹿児島市の興国寺墓地にある。墓の形状が新しいのは近年、親族の方々が故郷である鹿児島に遺髪を納めたため。ちなみに興国寺はかつて福昌寺の末寺の曹洞宗派であったが、廃仏毀釈により廃寺となり、広大な墓地だけが当時の繁栄を伝えてくれる。

長沢鼎は前述のように最年少での渡英であったことから、他の留学生らとは別行動が多かった。

そのひとつが、留学のコーディネートをした英国商人グラバーの故郷であるスコットランドのアバディーンでの中学入学である。異国でのハンデを努力に替え、首席の成績を修めた長沢は宗教家ハリスを頼りにアメリカに渡る。同行した森有礼らは明治維新の機会に帰国したが、長沢はアメリカに残り、カリフォルニアでブドウ園を経営することなる。使用人の数も300人あるような大規模な農園の経営から地元でも一目置かれるようになり、郡長や商工会議所の会頭も務めた。

そうしたなかで、日本へも4度帰国し、故郷である鹿児島へも戻っている。

その際にはなつかしい故郷でまんじゅうを大量に購入するなどのほほえましいエピソードもたくさん残している。昭和9(1934)年に経営するブドウ園にて82歳の生涯を閉じることになるが、現在遺髪は故郷の空の下に戻ってきた。

留学生のなかでも一番長生し、波乱万丈の長沢の人生を静かに感じることのできる墓である。