2015年3月 明治維新を支えた山川港(指宿市山川成川)

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火口湾としても知られる山川湾は、その独特の地形から古くより港として機能し、特に南西諸島に向かう航路の玄関口でもあった。それだけに、この港には様々な物や人、情報が集まり、この港なくして薩摩藩の経済は機能しないくらいの勢いもあったであろう。

さて、江戸時代後半に港に衝撃が走る。天保8(1837)年にアメリカの船であるモリソン号が近海まで来航し、漂流民の召還を求めてきた。当時は鎖国ゆえに港から砲撃して追い返したが、この事件がきっかけとなり、鹿児島城下から山川港までの道は急速に整備されることになる。

その後の安政5(1858)年には長崎に設立された海軍伝習所の練習船が山川港に入る。この船には勝海舟も乗船していた。たまたま指宿に滞在していた藩主島津斉彬は、オランダ将校とも会談し、意見交換を行った。その後、この港から奄美大島や徳之島などに向かうことになった西郷隆盛が、南の島々に渡る直前に港に逗留している。身の振り方を考えると不安定な状況にあった西郷に、この港の独特の地形はどのように映ったであろうか。

この港を代表する商人に河野覚兵衛がいる。沖縄などとの交易を担っていて、藩の経済を支えてきた人物である。島津斉彬は、この港にある河野家の屋敷も訪れていて、当時をしのばせる石垣が残されている。

鹿児島湾の入口だけに、様々な船の往来を見つめてきたであろう港は、現在は大隅半島と薩摩半島を結ぶ航路も乗船場として、またカツオ節の製造の拠点として地域の産業や経済を支えている。