2015年1月 福山郷の地頭仮屋跡(霧島市福山町)

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福山は、全国的に黒酢の産地として知られている。南西方向を向いた斜面地に連続した集落は比較的温暖な気候に恵まれ、また良質の水が湧くこともあって、江戸時代後半から大きな壺を野外に並べての酢の醸造が始まり、その産業と景観は今に引き継がれる。

そんな福山は江戸時代には港町としても栄えていた。港は日向筋と呼ばれる都城方面へと延びる街道との接点でもあり、大隅半島の物資がここに集積した。戊辰戦争では私領一番隊として活躍する都城島津家の蔵屋敷跡も海岸沿いに置かれていたことが、その重要性を象徴していよう。そして明治時代に入ってからもその繁栄は続いたが、大正3年の桜島の大噴火によって一変。桜島と大隅半島が陸続きになり、航路状況が変化、衰退することになった。

往時のまちの繁栄を示すかのように、現在の国道からひとつ山側に入った通り沿いに、江戸時代に地域を統括していたお仮屋跡の石垣などが残っている。港の整備は、天保の改革で知られる調所広郷によって推奨され、護岸の石積みは名工岩永三五郎が担当したといわれている。

お仮屋の入口には、その岩永三五郎が担当したといわれるアーチ状の石組みがあり、そこはお仮屋裏手の山から送り込まれる水の貯水施設になっている。お仮屋の入口にこのような施設があるのは珍しい。

西南戦争においては、この港は官軍による艦砲射撃を受けたが、お仮屋の石垣などは残った。後年の整備で港の石組みが確認しにくくなっているだけに、このアーチ状の石組みは、港が最もにぎわったころを伝える重要な役割を担っているといえそうだ。