2014年6月 殿様湯跡(指宿市西方二月田)

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全国にもその名が知られる温泉地の指宿は、古来多くの人々に温泉のやさしさを提供してきた。

江戸時代には歴代の島津家当主にも愛され、浴場の整備などが行われた。

天保2(1831)年になると二月田に湯治場が築かれ、当時の藩主である島津斉興にとってもお気に入りの場所になっていた。それ以前は、指宿を代表する入浴法の砂蒸しが行われている摺ケ浜一帯が殿様来訪の湯治場であった。二月田の湯治場も二反田川に隣接していて、藩主が訪れた際は、この川を小舟で河口の潟口から遡上したと伝わっている。現在の二反田川は川幅も狭く、舟が行き来できるような水深もないように見受けられるが、当時も漕ぐというより両岸から引っ張って遡上したという。

その湯治場が弘化3(1846)年、失火によって焼失してしまう事件が発生する。

その際に宿泊していたのは、斉興ではなくその子の斉彬であった。当時の鹿児島を代表する豪商の濱崎太平次の屋敷が指宿の海岸付近にあり、斉彬はそちらに避難して無事だった。その頃の斉興と斉彬といえば、西欧への対応をめぐって意見が対立していた時期だけに、様々な憶測も生まれたようである。しかし、斉彬は無事に鹿児島城へ戻り、二月田の湯治場も天保の財政改革を成功させた調所広郷によって再建されることになった。

現在ある殿様湯の遺構は、すべて当時そのままということではないが、山川石で築かれた浴場などが、殿様が入浴したという豪華な雰囲気を静かに伝えてくれる。隣接の敷地には、指宿の温泉の安寧を願う湯権現が建立されていて、境内の手水鉢には調所広郷の名前がみられる。