2018年8月 川口雪篷翁謫居の地(大島郡和泊町西原)

201808

文久2(1862)年閏8月14日、西郷吉之助(隆盛)は徳之島から沖永良部島に到着した。

島津久光の命令に背いた罪によって、初めは徳之島への遠島が言い渡されたが、再度の命令によって、さらに鹿児島から離れた沖永良部島への遠島となったためである。

さらに島では囲いに入れよとの指示もあったことから、徳之島や奄美大島での比較的自由な環境とは異なる過酷な状況に置かれた。そのため西郷は健康を害し、かなりの体調不良に陥った。ただ、島役人の土持政照らの援助によって、座敷牢という比較的良い環境に置かれることになった。

その際、精神的かつ学問的に西郷を支えた人物が川口量次郎である。川口雪篷(せっぽう)という名前が一般的であるが、この名を通常使用するようになったのは明治に入ってからのことであり、おそらく沖永良部島では量次郎として知られていたと考えられる。

川口も西郷と同じように罪人として沖永良部島に滞在していたが、罪は西郷よりは軽めであったようで、自由な散策も許されていたようである。罪状は不明だが、父や兄の罪に連座する形での遠島であったようだ。

川口は元々儒家であり、書家でもあったことから、座敷牢で過ごす西郷に対して書や漢詩の添削などを行ったという。ただ、島に伝わる逸話によると、座敷牢での指導中に昼寝をすることなどもたまにあったようで、西郷は「睡眠先生」とも呼んでいたという。実際に川口の書の号は「酔眠」であったことから、昼寝に限らず酒も好きな人であったことがうかがえる。

川口は島の北西に位置する西原集落に暮らしていた。西郷の滞在していた和泊からは約3キロ離れた場所である。この地には、川口が滞在したことを伝える記念碑も建立されていて、西郷をしばしば訪い、牢の外から精神的に支えた川口雪篷を偲ぶことができる。