2019年12月 加治木島津屋形跡(義弘公薨去地)(姶良市加治木町)

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慶長12(1607)年、島津義弘は平松城(姶良市平松)から居を移した。

はじめは、龍門の滝の近くに位置する加治木城に入る予定で、48人の家臣を先発させた。しかし、加治木城はしばらく空城であったことや町割を考慮して、新たに屋形を建てることにした。その際には易学者の黄(江夏)友賢が尽力し、役所や家臣団の屋敷の配置が進められた。

誕生した屋形は、南北200メートル・東西350メートルの長方形で、南側に石垣、北側に堀が設けられた。

屋形の東半分が義弘の屋敷となり、西半分には義弘の子である忠恒こと家久が、義弘の死後に屋敷を設けた。屋形の標高は約10メートルで、南側に低い平地に家臣団の屋敷が立ち並ぶことになる。

義弘は元和5(1619)年7月21日に、この屋形で亡くなることになる。

つまり、加治木が晩年の地となり、12年間過ごしたことになる。亡くなった際の年齢が85歳と、当時の平均寿命からすると高齢である。

そのために加治木時代には、体の衰えも見られていたようで、この屋形においては老いを感じさせるエピソードも伝っている。

ひとつは、晩年には食事がなかなかに細くなり食べることも億劫になりがちになった。そのような時に家臣らが工夫したのは、戦場さながらの鬨の声をあげると、自分で食事をすることができたという。

他にも体が融通を利かない状態の義弘は、生まれた伊作の地にある大汝牟遅神社に参拝したがったという。そこで家臣らは考え、屋形から近い位置にある春日神社にお連れして、「殿、着きましたよ。」と伝えたという。すると、義弘は勘違いをして春日神社を参拝することで満足したという。

波乱万丈な一生を駆け抜けた義弘にとって、最晩年となる加治木時代はそれまでの過ごし方とは違い、穏やかさが確かに存在するようである。屋形跡に残る石垣などが、そのことを静かに伝えてくれているようである。