2020年3月 関ヶ原合戦島津義弘陣所跡(岐阜県関ヶ原町)

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慶長5(1600)年9月15日、日本歴史上最も有名な合戦の火ぶたが切られた。

それは関ヶ原の戦いであり、この戦いの後、徳川家康が政権を握ることになる。

この合戦に島津義弘が参戦し、石田三成方、いわゆる西軍に付き、退却に際して敵の徳川側に向かうという「敵中突破」を行ったことでも有名である。

ただ、義弘は西軍参戦を当初は望んでいなかったことも知られていて、伏見城入城を拒否されたことにより石田方への参戦であった。

陣所跡が関ヶ原にある。ちなみに現在も関ヶ原には合戦の知名度の高さから、参戦したそれぞれの大名の陣所跡に目印となる碑があったり旗などが掲げられていたりして、訪ねやすくなっている。義弘の軍勢は、約1500人で小池と呼ばれる場所に布陣し、甥の豊久は、その南側前方に布陣した。

関ヶ原の合戦は朝8時頃に開戦し、正午には大勢が決し始めた。それに合わせて義弘は、桃配山に本陣を置いていた徳川家康の陣方向に向かって軍勢を進めた。ちなみに、家康陣は退路としては薩摩に向かうために近いとされる伊勢路方面にある。

まず先陣を切ったのは、後に出水地頭となり、当地に様々な功績を残した山田昌厳であった。その後に義弘の身代わりとなった島津豊久や長寿院盛淳が続いた。関ヶ原近くの鳥頭坂には、豊久の慰霊碑が建立されている。また、長寿院盛淳の供養碑も琳光寺(大垣市石津町)にある。

撤退する島津義弘の前に、徳川家康の重臣である井伊直政が立ちはだかる。直政の参戦は退路を求める義弘勢にとって脅威、敵将・直政を討ち取るため、火縄銃を持つ柏木源藤が対応した。柏木の弾は直政の右脇腹に当たったものの、鎧によって跳ね返り右腕を貫いたとされている。しかしこの出来事によって井伊勢は怯み、大勢の犠牲を払いながらも義弘は関ヶ原を脱し、鹿児島まで無事に帰ることができたのである。

天下を二分した大戦の顛末は現代に至るまで様々に語られることとなったが、敵陣に向かって退却するという義弘の大胆な行動は中でもその名を天下に示し、今に至る義弘人気の大きな理由になっているといえよう。