2020年4月 鶴田義行像(鹿児島市伊敷町)

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鹿児島県出身者でオリンピックにおいてメダルを獲得した人物は多々あるが、二大会連続で金メダルを獲得したのは鶴田義行ひとりである。

鶴田は昭和36年10月、伊敷村飯山に12人兄弟の次男として生まれた。

飯山は、目の前に甲突川が流れる谷間の集落で、鶴田は幼い頃からこの甲突川で水泳の練習をしていたという。このあたりでの甲突川は、江戸時代に永吉や原良、西田などの田んぼに水を供給していた石井手用水路の取水口にあたり、現在でもその名残を偲ぶことができる。

甲突川で培った水泳の技術を活かすため、鶴田は佐世保海兵団に入隊する。佐世保では訓練として、1日に必ず1万キロは泳いでいたと伝わっている。そしてその鍛練の成果は、巡洋艦「由良」に一等機関水兵として乗り組んでいた時に発揮されることになる。

大正12年、明治神宮での水泳大会において新記録で優勝したのである。

そのことで一躍注目をあびた鶴田は、大正14年には海軍を辞し報知社に入社する。会社勤めをしながらも水泳の練習には余念がなく、見事昭和3年のアムステルダムオリンピックに200メートル平泳ぎの選手に選ばれる。そしてアムステルダムオリンピックで、世界記録保持者のドイツ人選手のラーデマッフェルらを破り、2分48秒8のタイムで優勝するのである。

帰国後は、明治大学に入学して水泳の世界大会で新記録を達成するなど、鶴田の名前はさらに世界に知られることになる。

その後一時はオリンピックからの引退を考えたが、日本水連からの要望によって、昭和7年のロサンゼルスオリンピックにも出場することになる。200メートル平泳ぎでは、決勝において日本人の小池礼三と争うことになったが、鶴田は2分45秒4のタイムで再び優勝した。

誕生地には、水泳選手であった頃の鶴田の像と鶴田の言葉が刻まれた碑が建立されている。碑には「苦しいうちはダメ 鍛練不足の証拠 苦しさに慣れ平気になって 本当の苦しさ探求が始まる」とある。努力家だった鶴田らしい言葉である。