2021年2月 逆鉾与次郎追孝碑(南さつま市金峰町花瀬)

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江戸時代には阿多郷と呼ばれ、武士の居住地域にあたる阿多麓は、武家門や町割に江戸期の町並みの面影が残る。

その一角、用水路沿いの道路と招魂社の間の三叉路に、ひときわ目立つ記念碑がある。この地域が輩出した名関脇・逆鉾与次郎の石碑である。

逆鉾与次郎は、明治4(1871)年に年永嘉右衛門の四男として誕生した。幼少期から相撲を得意とし、地域の相撲大会などで頭角を現していた。

その評判は角界にも伝わり、明治25年、初代横綱西ノ海が鹿児島巡業に訪れた際、まずは高砂部屋に入門した。時に与次郎22歳。さらに翌年には高砂部屋から井筒部屋に移り、四股名は錦灘を名乗った。明治27年5月には三段目で優勝し、翌年には逆鉾を名乗るようになる。明治29年の26歳の時に初入幕を果たしたが、身長は168センチ、体重は82.5キロと力士としては小柄であった。

ただ、小さな体格から俊敏性には優れ、「はやぶさ」の異名をとり、特に土俵際のうまさには「彼のかかとには目がある」とまでいわれるほどであった。

明治31年1月に小結、さらに5月には関脇に昇進したが、明治34年頃から病気休場が連続して、明治40年には小結を最後として引退することになった。最高位は関脇であった。

各界引退後には、年寄として関ノ戸を襲名、相撲協会の検査役などを務めた。また、国技館創設にも尽力している。そして昭和14年10月28日に68歳で病気で亡くなっている。

さて追孝碑は、逆鉾最高位であった明治35年の関脇時代に建立されたものである。

「追孝」とは亡くなった父母に供養をし孝行を尽くすこと。相撲という舞台で故郷に錦を飾った逆鉾が、ここ阿多村で父母に育まれ、各界に入り、東京相撲で活躍できていることを感謝する様子が綴られている。

また碑の最上に刻まれている「追孝碑」の文字は、当時の内閣総理大臣の桂太郎によるものという譽であった。

鬼籍の父母も息子の活躍に目を細めていたのではと想像する。