2012年4月 東帰庵跡(鹿児島市伊敷二丁目)

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国道3号上りの伊敷仮屋バス停の向かい側に、桂庵小路というせまい道がある。

ここを進むと、桂庵公園がありその一角に国指定の史跡になっている桂庵玄樹の墓がある。

彼は1427(応永34)年に山口に生まれ、1435(永享7)年に京都の南禅寺に入り修業を重ね、1467(応仁元)年に遣明使の一員に選ばれて明国に渡った。この一行には、日本独自の水墨画風を確立した雪舟等楊もいた。

朱子学を修め6年後に帰国したが、応仁の乱の最中で京都は荒れ果てており、島根や豊後を転々としたのち、11代当主・島津忠昌により薩摩に招かれ、田之浦(現在の多賀山公園付近)で朱子学を講じた。

1481(文明13)年、日本初の朱子学新注本『大学章句』を刊行した。これは、初学者が朱子学の基本となる道徳をまとめた入門書で、江戸時代に朱子学が幕府の正学となって以降、武士にとって必読とされた。

さらに彼は、音読を多用した漢文訓読法を考案した。私たちが漢文を書き下し文として読み理解することができるのは、桂庵の存在なくして語れないゆえんである。

建仁寺の管主を務めたのち、再び薩摩に向かい、伊敷に東帰庵を構えて暮らし、1508(永正5)年に亡くなった。

2008年7月、地元の町内会が中心となり没後500年祭が挙行され、再び桂庵玄樹の功績に注目が集まった。