2010年5月 大龍寺と南浦文之(鹿児島市大竜町)

201005

上町地区は、鹿児島城下のなかでも最も長い歴史があり、各所に名刹があった。

薩摩藩最大規模の福昌寺や現在も残る仁王堂水に正門のあった大乗院などとならび、大龍寺もその1つに数えられる。

1611(慶長16)年、内城跡に南浦文之(なんぽぶんし)(1555年:弘治元年~1620年:元和6年)を開基として建立された。

文之は飫肥の生まれで、幼い時より仏門で修業し学問にも秀でていたことから文殊童とよばれた。

朱子学の一派・薩南学派の創始者である桂庵玄樹の孫弟子にあたる一翁玄心らに師事した。

文之は、玄樹が『大学』『中庸』『論語』『孟子』の「四書集注」に施した訓点に改良をくわえ、江戸幕府体制下で朱子学が正学とされると、この読解のしかたは主流として定着した。

島津義久・義弘・家久の3代に仕え、琉球王国をめぐり明国との交渉にかかわるなど外務顧問としても活躍し、後世に黒衣の外交官とよばれた。また、東郷重位に「示現流」という剣術流派名を与えたり、1543(天文12)年にポルトガル人により火縄銃が伝えられたことを詳述した『鉄炮記』を著したりしている。

明治初年の廃仏毀釈で大龍寺も廃寺となったが、1912(明治45)年に文之和尚記念碑(写真中央)が建てられた。

現在、寺跡には市立大龍小学校がある。校歌に文之が登場するなど、向学の志はいまも子どもたちに受けつがれている。