2011年1月 若き薩摩の群像(鹿児島市中央町)

201101

1865(慶応元)年、薩摩藩は藩費で英国に留学生を派遣。

国禁の海外渡航のため、甑島や大島への出張としてさらに変名を用いて串木野を出発、約2か月の旅を経てロンドンに到着した。留学生たちは、英国でSatsuma Studentsとして歓迎され、薩摩と英国の関係は急速に接近していった。

留学生とともに使節として同行した五代友厚らは紡績機械の買い付けに成功し、1867年に鹿児島紡績所(日本初の洋式紡績工場)が磯地区で操業を始めた。

同年、日本が初参加したパリ万博において、薩摩藩は日本薩摩太守政府の名で幕府とは一線を画し、薩摩琉球国勲章や薩摩焼・黒糖などを出展した。万博出展は、留学生たちの働きかけがなければ実現しなかったといわれており、海外に幕府の弱体化と維新を予期させる場となった。

のちに、初代文部大臣となる森有礼をはじめ、サッポロ開拓の父・村橋久成、東京開成学校(のちの東京大学)の初代校長・畠山義成、アメリカの葡萄王・長沢鼎など、留学生たちは各界で活躍した。

この像は、彫刻家・中村晋也氏の制作で1982年に建てられ、鹿児島中央駅の旧称である西鹿児島駅の時代から、駅東口のシンボルとして親しまれている。