2009年1月 鳥越坂から見た磯地区(鹿児島市吉野町)

200901

尚古集成館には明治初年に鳥越坂から撮影された古写真が所蔵されている。

これがほぼ唯一、往時の集成館事業の全体をとらえた貴重な一枚で、現存する尚古集成館と異人館をはじめ、諸々の工場群の様子をはっきりと知ることができる。

島津斉彬は1851(嘉永4)年に11代藩主となると、幅広く近代化事業を進め、工業生産拠点をつくりあげた。

その後薩英戦争で焼失するが、次代の忠義とその父・久光が再興し、1865(慶應元)年に石造の機械工場が操業を開始した。これが現在の尚古集成館本館にあたる。

異人館は、日本初の洋式紡績工場である鹿児島紡績所の英国人技師7名の宿舎として1867(慶応3)年に建てられた。

同紡績所の技術を全国に広めようと考えた忠義は、ここから機械の一部を泉州堺に送り、1870年に堺紡績所を設立した(ユニチカの前身)。

幕末の政情不安から技師はわずか1年で帰国。宿舎は西南戦争で薩軍の仮病院となった後、1882年に鶴丸城跡(現・黎明館)に移築され、第七高等学校造士館の本館として利用された。

1936年に現在地に戻ってきたために、空襲による焼失を免れた。

平成20年9月、文化庁は集成館をはじめとする「九州・山口の近代化産業遺産群」を、非西洋地域における近代化先駆けの地として、世界遺産暫定リストに含めることを決定した。