2016年8月 中村博愛(ひろなり)誕生地(南大隅町根占川北)

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波乱万丈な人生を送った人物が多い印象のある英国留学生達だが、なかには穏やかに仕事をこなし一生を終えた人物もいる。そのひとりが中村博愛である。ただ、国禁を犯してまで留学に参加したこと自体がアドベンチャーと言えるかもしれない。

中村は大隅半島の南端地域にあたる根占郷で天保14(1844)年2月17日に生まれた。現在誕生地の碑が建つ場所は、南大隅町役場の駐車場となっていて、住居などの痕跡を確認することはできない。ただ、ここが根占郷の麓にあたり、当時は郷士屋敷が立ち並ぶ地域であった。ちなみに長沢鼎こと磯長彦輔のルーツである磯長家の屋敷も中村家の屋敷と隣接していた。

他の留学生とは別行動であった中村は、まず英国からフランスへと渡った。そして明治元(1868)年までの3年間、フランス語などを学んだ。その後帰国した際に宗見(そうけん)と名乗っていた名を博愛に改める。

初めは薩摩藩の洋学校である開成所でフランス語の教授となり、人材育成に尽力していた。翌年、西郷隆盛の弟・西郷従道が明治政府の命によって欧州視察へ派遣されることになり、その通訳として随行することになった。この仕事が明治政府へ出仕するきっかけとなり、フランスから帰国後は兵部省へ出仕、そこでも通訳が主な仕事であった。翌年の明治4年には工部省へ転属し、工業技師さながらの業務をこなすことになるが、明治6年には再度の転属が言い渡され、今度は外交官として活躍することになる。

フランスを皮切りにイタリア、オランダなどで明治22年まで外交官を勤め、晩年は貴族院議員として明治35年に60歳で亡くなった。華々しい経歴、エリート街道を順当に進んだのは、才能と努力ゆえのまっとうな一生であったといえるかもしれない。