2014年10月 寺山炭窯跡(鹿児島市吉野町)

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1850年代に、薩摩藩主・島津斉彬が推進した集成館事業は、日本という国を西欧諸国の脅威に屈しない国にするための近代化推進であり、軍事にとどまらず、多岐にわたるものであった。この事業には、大砲鋳造のための反射炉や溶鉱炉、蒸気機関の運転にガラス製造など大量の燃料が必要とされた。

当時日本国内においても石炭が利用されていたが、薩摩藩内では良質の石炭の採掘は不可能であった。そこで代用として木炭が利用された。すでに島津斉彬の先代にあたる斉興の時代に、現在の宮崎県にあたる去川や高岡で木炭の改良や増産が行われていたが、例えば多量の鉄を扱う反射炉にはこれまでより大きな火力が求められるために、木炭よりも火力の得られる白炭の研究が急務であった。

斉彬は家臣・山元藤助を紀州に派遣して、白炭の製造を学ばせている。安政4年に三万俵もの白炭を日州御手山(宮崎県)から集成館に送ったという記録があり、集成館事業においてはいかに大量の白炭が必要であったのかをうかがい知ることができる。

さらに、集成館事業が展開されている磯地区から近い場所にも製造する場が求められ、山元藤助は寺山に炭窯を建造するに至った。当時三基建造されたようであるが、現在は、そのうちひとつ遺されたものを見ることができ、これは世界文化遺産の国内推薦案件となっている「明治日本の産業革命遺産」の構成資産でもある。

現存する炭窯を見る限りでは、通常の炭窯と比較しても大きいものであり、大量製造が背景にあったことがよく理解される。炭窯跡の片隅には、歌人・学者の八田知紀によって建立された、この炭窯建造に関する由来を記した記念碑もあり、当時の活気ある様子を伝えている。

  • 寺山炭窯跡は2015年、第39回世界遺産委員会において、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産の一つとして世界文化遺産に登録された。