2018年12月 駄馬落の跡(鹿児島市吉野町)

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明治6年の政変によって鹿児島に下野してきた西郷隆盛。

政府内での対立によって過度のストレスにさらされた西郷は、明治7(1874)年には鹿児島各地へ湯治に出かけている。

それにより体調がある程度回復したことから、明治8(1875)年に入ると、私学校の関連施設として吉野開墾社の設立に尽力することになる。

当初は、出水の大野原を候補地として測量や実地検分などを行ったが、あまりにも面積が広く、手始めはほどよい広さの土地での開墾を行いたいとの理由から、吉野の寺山に落ち着くことになった。

4月に入ると西郷も自ら現地に赴き、準備段階から指揮をとった。4月26日付の弟・西郷小兵衛宛の手紙には、建物などの建設に尽力した大工たちへ十分な配慮をするように求める内容が書かれている。また、6月19日付の篠原国幹宛の手紙では、開墾に必要な農機具の購入を細かく指示したりしている。

このように、吉野開墾社の設立には、他の私学校の施設と異なり、西郷が自ら深く関与していたことがうかがえる。

こうして西郷は、当時鹿児島の武村にあった自宅と吉野台地の間を何度も行き来することになる。その際、寺山の地で収穫したサツマイモなどを馬などに乗せて運搬することもあったと考えられ、吉野台地を江戸時代から横切る主要街道の大口筋が、西郷の通り道のひとつであったと予想される。

実際、この街道沿いにあたる天神山という場所には、小さな石碑が建立されている。そこには「駄馬落」とあり、「積荷は唐芋、曳手は西郷南洲翁」ともある。これは西郷が、寺山の地で収穫したサツマイモを積んだ馬を曳いて通行していたところ、曳き方を誤ったのか馬が積荷ごと転んだということを示すものである。

その後、言い伝えによると西郷は、落ちて転んでいるサツマイモを拾うことなく呆然としていたので、周辺のひとたちが馬を起こしたり、芋を拾ったりしたということである。

そのような逸話が伝わるだけでなく、石碑にまでなっているところが、鹿児島の人々から様々なかたちで愛されている西郷さんらしいといえるかもしれない。