2020年6月 中馬庚像(鹿児島市鴨池2丁目)

202006

鹿児島市にある鴨池市民球場の入口に、ひっそりとたたずむ胸像。象られているのは中馬庚(かなえ)で、「ベースボール」を「野球(やきゅう)」と訳した人物である。

中馬は、明治3(1870)年に現在の鹿児島市西千石町で今藤家の三男として生を受けた。三男ということもあってか、4歳の時に母方の中馬家に養子に入っている。実家の今藤家は、鹿児島では「ドン」が付く学者一家でもあり、兄弟は皆帝大に入学している。

中馬も三州義塾から第一高等中学校(後の一高)に進学し、そこで創設期のベースボールに触れることになる。

在学中の明治27(1894)年10月28日に著した「第一高等学校野球部史」で、初めてベースボールを「野球」と訳して発表。ただ、最初から「野球」と決めたのではなく、「底球」や「塁球」との案もあったようだ。しかし「フィールドでおこなうから野球としたらぴったりでは。」ということになり、野球に落ち着いたという。

さて、「野球」という言葉を初めて使用したという人物としては、正岡子規の方がよく知られている。たしかに中馬が「野球部史」を著す4年前に「野球」という文字で、「のぼーる」と読ませ使っていた。偶然にも「野球」という漢字は一致していたようである。

ということで、中馬は「ベースボール」を「野球(やきゅう)」と訳した初めての人物、という表現が一番しっくりくるのかもしれない。

中馬は一高を卒業後には、鹿児島中学造士館教授となり、鹿児島一中では西洋史や英語を教えた。教職としては徳島県立脇中学校長が最後である。晩年は大阪府豊中市で釣り堀を経営したというユニークな経歴もある。ただ、「野球」と訳した人物だけに、その頃には高校野球の春の選抜大会の選考委員も務めていた。

中馬の功績を称え、平成2年、故郷鹿児島に胸像が建立された。鴨池市民球場は、鹿児島から甲子園を目指す高校球児にとって大切な場のひとつ。そして中馬の胸像は、鹿児島のみならず日本の野球の聖地のひとつともいえるかもしれない。